本当に守られていたのは、どちらだったのかな
動物は意味を持って現れるというお話
私はあのコを家族に迎えて、助けたつもりだった。
でも本当は、うちのコに救われていたんじゃないだろうか。
一緒に暮らしている動物について、一度はそんなふうに感じたことってありませんか。
出会ったら、「このコは私が守らなきゃ」とは思いますよね。ご飯を用意して。病院へ連れて行って。寒くないように。寂しくないように。災害の備えも万端に。
うちのコを愛しながら……というか大切だからこそ、気がつくと心のどこかで”守る側”として見てしまってます。だって子供と一緒じゃないですか。自分が飢えてもこのコは守らなきゃ。うん。私はそう思ってきました。
けれど、長い時間を動物たちと過ごし、アニマルコミュニケーションの学びを得てたくさんの動物たちと向き合う中で、少しずつ「ん〜???」と思うようになったのです。 ”本当にそうかぁ?”と。
もちろん人間社会で一緒に暮らすんだから、人間が動物のお世話をしなきゃですよね。ご飯も必要だし、病院にも連れて行きます。人間社会で共に暮らす以上、それは私たちの役目です。
でもですね、そのコとの生活を振り返ったとき、支えられていたのはどちらだったのかなと思うことがあるのです。
父の一周忌が近づき「もう私のなすべきことは終わったから消えてしまいたいな〜」と思っていたら「コレどうやっても私が病院へ連れて行かないとダメなんじゃん」な状態の大怪我をした猫が現れて、そのまま家族になったこと。
生きる理由を失って虚ろ(うつろ)だったのに、そのコのために働き、酷暑のなかをえっちらおっちらと毎日のように病院へ通い、夜型の私が毎朝同じ時間に起きてご飯をあげたこと。
心の底の澱のように溜まっていた悲しさや寂しさが不意にせり上がってきて、ボタボタと涙を流していたとき、ただ静かに膝の上に乗って私を心ごと温めてくれたこと。
思い返すたびに「ありがとう」の気持ちでいっぱいになってしまう。挫けた心を立て直したのは私自身ではなく、あのコだったんじゃないだろうか。「私があの子を守っていた」というより「あの子が私を支えてくれていた」としか思えないのです。
アイヌにはこんな口伝があります。
“動物たちは、動物のカムイ(神様)が人間を助けるために、自らの魂の一部を”動物”としてこの世界へ送り出してくれているんだよ”ーー私はこの話に、頷かずにはいられません。
カムイが人間のために動物を送り出してくれているのが事実かどうかを証明することはできませんけど(動物との対話では、その辺も教えてくれることがあります)人生の『ある時期』に出会う動物たちが、まるで何かの約束をしてきたかのように、その人の人生に深く関わることがある。それは確かにあると思っています。
皆さんのお家のコとのきっかけは何でしたか。どんな時に出会いましたか。いつか、お聞かせくださいね。
さて。
ペットロスになると「あの子にもっとしてあげられたことがあったんじゃないか」と考えてしまいがちですよね(私も毎回、同じくです!)
でも時間を少し経て、少しだけ視点を変えることができるなら「あの子に何をしてあげられたか」だけではなく「あの子から何をもらったかな」を思い出してみてくださいね。
めんこい〜!(愛おしい)と思える気持ち。ひとりじゃないんだ、と思える温もり。
思わずクスッと笑ってしまうそのコ特有の仕草。「おやすみ、また明日ね」と言える希望。
不安だけど、やらなきゃ!って思わせてくれる0→1への勇気。
最期まで一緒に居たいがための、生きる力。
日々の中から、たくさんのものを受け取っていたことに気が付けたら、素敵だなと思います。
動物と対話するようになって、彼らから教わったこと。
それは、彼らの魂や存在は私たちより下でもなければ守られるだけの存在でもない。逆に、人間を支えるためにやってきて、伴走してくれるパートナーであるということでした。
魂のグループが一緒なんだと思います。三次元での「物理的な家族」ではなく、私には「魂の家族」という言葉がしっくり来ています。
だから別れがこんなに苦しい。だから思い出すたびに涙が出る。私たちと彼らは、”はっきりとした意味があるから出会った”と思います。
だからもし今、大切なあのコを思い出しているなら、ちょっとだけ考えてみてください。
「あのコは私に、何を教え、何を残してくれたかな」
私たちはあのコを育てていたのではなく、人生のある期間を一緒に歩いてもらっていたのかもしれません。


